昭和50年12月21日 朝の御理解



 御理解 第78節
 「神の機感に叶うた氏子が少ない。身代と人間と達者とが揃うて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感に適わぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、又大切の者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになって来る。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」

 先ず信心によって人間が出来なければならん。それに達者と身代が伴うて来る。先ず信心をさせて頂くならば、先ず人間が変わらなければならん。愈々人間が大きく豊に成らねばならぬ。昨日の御理解を頂くと、とかく信心は地を肥せと仰せられる。とかく信心は人間を作ると、人間を作ると言う事は、豊かな人間性、大きな寛大な心の持ち主、そういう稽古をたゆまずさせて頂く事が私は信心だと思う。所が本当に自分の器量の小ささ、所謂寛大でない、許せない事が沢山自分の周囲にある。
 豊かさが無い。そういう風にいろんな事に出合うたんびに気付かせて頂いて、愈々豊かさを願い、愈々大きな私にならして頂く事を願いとする。私は先ずここの所を願うて行く事。これなら必ず健康の上にもお繰合わせを頂くでしょう。身代の上にも段々おかげを受けて来るでしょう。そこで健康の上まあ健康とか身代とかと言う事は、まあ必ず健康とか身代とかと言う事ではない。
 まあ言うならば、人間の幸せの条件と言う事だと思うです。人間の幸せにならねばならい為には、どうでも健康も要れば身代も要ると言う訳ですから、その二つだけの事ではない。もう全てが足ろうて来る。ですからもしこれが足ろうて来ないでおるとするならばです。俺は人間は段々信心のない時よりも大きくなった、寛大になった。自分の周囲の誰彼よりも皆許せれる様になって居る。おかげを頂いてそれこそ、信心の滋味豊かな心も段々出来てきよる。にも拘らず身代も出来ない。
 言うなら幸福の条件が足ろうて来ない。どうぞ体の丈夫、家庭に不和のなきが元、日勝り月勝り云うなら子孫繁盛、家繁盛の元がそこに出来ていっておるこれならば。私は間違いなく、そういう信心が二代三代と続いて行くに違いはない。所が頂いては消え、貰うては無くなると言う様なおかげの状態、所謂堂々回りである。をそこに感じたり見たりするなら、これは一つ大いに反省して改まって行かなければならない。
 私は今日はここの七十八節で一番大切な所と言うと今申しました、先ず人間が出来ると言う事と同時に、神のおかげを知らぬから互い違いになると仰せられる。神のおかげを知らぬから互い違いになる。おかげで財のおかげは頂く様になったが家庭が円満でない。家庭は本当に一家挙げて信心させて頂く様になって、まあこっとりとも言わない様になったけれども、何時も財の面では豊でない。又は病人が絶えない、と言う様に互い違いになるのは神のおかげを知らぬからだと。
 昨日ひとりでにものが出来ると言うおかげを頂いて居られるまあ実例と言うか、吉井の波多野さんの所の例をとった。信心はお母さん一人だけれども、二十数年間それこそ日参的信心の修行が積まれた。人間も段々変って来られた。同時に又自分の非自分の欠点も段々よく分かる様になった。
 本当に人に愛され、神様に愛される自分になければならない事に日々精進をして居られる。それこそ引き上げて帰って五人の子供を擁しながら、並み大抵の事ではなかったろう。所がその五人が五人が五人共、もう打ち揃うて親孝行である。真面目であるそれぞれに一家を為して、もう一番下ののり子さんが縁に付いて居られる人がつい四、五日前。新しい所謂あちらに嫁入って行かれる時に。
 あちらが新しい家を建てて居られましたけれどもそれが大きく建て直されてそちらに住んだと、本当に揃いも揃って皆、勿論自分の家も新築が出来た、だけでない、もう何に不自由の無い様なおかげを頂いて居る。その日の霊祭に各自がまあ幸せそうな事実を色々に商売が繁盛して居る事やら、家庭が円満に行っている事やら話して居られましたが。その通りにおかげを頂いて居る事が、さあお母さんが本当におかげを頂いて、この人達がこの様に立派におかげを頂いて来たと言う事も一重に御取次のおかげであり。
 日々の信心の稽古をさして頂いて居るおかげであり、ささやかながらでも自分が改まる。今日の御理解で云うなら、人間が出来る事に一生懸命、私が一人精進させて頂いておれば、周囲子供達がこの様なおかげを受けて居ると、おかげを受けて居ると実感して居るのはお母さんだけ。五人の子供達は、まあお母さんが信心してくれておるけんと、まあ思うとるかも知れんけれども、先ずは自分達の腕一本とか器量一つでここまでおかげを頂いて来た。おかげを頂いて来たまあ皆が揃うて、よくよく思いよると。
 そればってんが五人が五人これだけおかげを頂いて居る事実を見てからです。まあ気付くのですけど仲々気付かん。己惚れとかさけのない者はおらんと言われる様に矢張り私どんが頑張ったから、働いたからと言う風に感じておるだろうと思う。本当におかげと思うておるのはお母さん一人だから、このお母さん一人が神のおかげをおかげと知ると言う事。ですから、これから波多野さんの信心はその子供達の一人一人がです、これを神様のおかげと分かる所まで子供達の信心。
 言うなら信心の継承が出来なければならない。今朝私はそれこそ文字通りと、言う事を頂いたです。それこそ文字通り。たった親一人の真の信心がです。それこそ文字通にひとりでにものが出来る程しのおかげを頂いて居られるのだ。でお母さんがひとつ元気な内に子供達にもそのおかげをおかげと分からせる。私は信心させて頂く者はそれこそ文字通りの信者にならせて貰わなけりゃいけん。
 金光様の信心しとるから、中々人間が立派であるとか、賢い真面目だ忠実だと、本当に実意丁寧だ。文字通りそういう人間になることが、人間を造ると言う事だ。所がその波多野さんの場合、子供達の場合皆がそれが文字通り皆が真面目なのです。これで例えば、本当に身代も出来健康のおかげを頂き、これに信心で言う所の人間が出来る。だから文字通りの神の機感に叶うた氏子になるだろうけれども、昨日の御理解の中にありました様に。 例えて言うと、神様の一番お嫌いな賭事色事に。
 魂を奪われる様な事さえなかったら、おかげがこのまま続くと。賭事をしてはならないと言うのじゃない、色事はいけないと言うのじゃない。魂を奪われる様な事があったら、おかげを落とすと言うのです。そりゃ落ちたこの実も十八願のと言う様な、そりゃ地獄道に落ちても、そこは矢張り阿弥陀如来様のお心の中だ、懐の中だと言う悟りから来ると、そりゃ落ちても又おかげです。昨日菊栄会でしたが揃うて昨日九名が集まって居られました。会長副会長である正義さん文男先生外高橋さん以下九名でした。
 その一人一人を私は思わせて頂いて思うたのですけど、今日の言うならおかげを頂いて、段々人間が出来て来よるなあと言う事でした。成程合楽の信心を身につけて行きよるなあと言う事でした。もうこの人達が賭事や色事に魂を奪われるような事は先ずなかろう、と思われる様な人ばっかりでした。とにかくね人道上許せないと言う様な事柄はです、言うならば合楽で言われる御の字さえ付けたらと言われる様な、頂き方が間違えるとですね、大変な間違いになって参りますが。
 人間が出来て来たら身代が出来、健康が出来所謂人間の幸福の条件、家庭が円満になって来ると言うおかげが頂けていないとするとです、私共が色々と反省させて頂かねばならない。そしてそれが自分一人の信心、有難いと言うだけに止まらずに、周囲にもその信心が伝わって行く様な、おかげを頂かなければならない。それが段々出来て来ていると思うけれどもです、身代やら所謂人間の幸福と言う者が、段々育って行っていないとするならば、矢張り考えてみなければいけない。
 そして先ずは言うならば人間を作らなければならない。おかげを言うならば頂く前提として先ずは人間が出来なければならない。そしてどう言う誘惑があってもそれに迷わない人間を創っておかねばいけない。おかげを頂いとってもおかげをおかげと知らない。例えて波多野さんの所の例をもってすると、お母さん一人はおかげでなくて何であろうかと、これ程しにおかげを受けてと、これは心の底から思うておるだろうけれども子供達は佐程でもない、いやおかげとは思っていない所からです。
 狂いが出て来るのです。互い違いになって来るのです。信心して神の大恩を知れば無事達者で子孫も続きとある。神の大恩を知ればと、これも矢張り信心に依って人間が出来る精進、只生まれつき中々人物が立派だと言うのとはだいぶ違うですね。信心に依って人間が出来て来る。言うならば金光教的人物と言うかね、実意丁寧な人物人間がそういう稽古を本当にさせて頂くに従って、おかげが分かる様になり、大恩が分かる様になる。そういうおかげが分かり大恩が分かる様になって来ればです。
 どういう例えば誘惑があってもね。それに惑わんで済むおかげが頂けて来る様になると思います。それが云うならば子孫も続き身代も出来、一年勝りのおかげを頂ていく事が出来る。いろんな意味で不如意の時、思う様にならん時、愈々私は自分の人間と云う者をいよいよ創って行かなけりゃならない。もう愈々改まりに改まって行かねばいけない。おかげを、人間の幸福とは反対の事になる様な事柄に魂を奪われる様な事であってはならない。お金が儲らん筈だという事に血道を上げたり。
 例えば悪い事と言うなら、例えば賭事をしたり泥棒をしたり、サアちょいと大変儲ったようだけど。泥棒で財産残した事はないと言われる位ですからね、だから悪か事したら損になっとている。働き損になってしまっている。賭事で金持ちになったと言う事もそんなに聞いた事が無い。所謂実意丁寧神信心と言うと、おおよそかけ離れた生き方に、血道を上げたり魂を奪われる様な事では私は金光様の御信心、いや金光様的な人間が出来る事にはならないと思う。
 と言うて普通で言う糞真面目であれと言うのでは決してない。この辺のとこを今私は先ずは人間が出来ると言う事だと思う。その人間が出来る所から、身代が伴うて来る、健康が伴うて来ると言う。そういう一つの順序を追うた、おかげと申しましょうか、言うなら人間の幸福の条件の全てが段々足ろうて来る。その足ろうて来るおかげを頂く為に、信心修行、とかくに信心は地を肥せと仰る。
 とかく信心は先ず人間を創れ、根を肥せと言う事は、愈々豊かな心、寛大な心、そういう心を創る事に精進する事が私は人間を創る事だと。そういう人間が間違いなく育って行くところにです幸福の条件が足ろうのだけれども、果して自分がそういう信心をさせて頂いとる積りであっても、おかげが堂々回りをしておったり、おかげが頂け無いという。ならば先ずこれはもっともっとハッキリと神様の眼からご覧になっても、この調子で行くならば、段々立派な人間になるだろうと言う見極めが。
 神様付けて下さる所までは、私はおかげを頂かねばいけん。もう人間だから是位の事は堪えて貰わにゃと言うた様なものではなくて、限りなく私はそういう精進をさせて頂く所から、愈々です、神の大恩も分かり神のおかげも分かる様になり波多野さんが家の中で一軒、いわば本当の信心を目指して、決して本当な信心というても本当の信心と言うのは限りがありません。改まるというても限りがありません。
 自分にはこういう非がある、こういう欠点があると言う事を段々気付いて一生懸命それに取り組んで来られて、所謂人間を創る事に一生懸命精進して居られればです、信心の無い子供達がそれぞれの立場でおかげを受けて居る、ひとりでに物が出来る様なおかげを受けて居る。一人信心が本当に出来るとそういうおかげになって来る。本気でましてや家族中でそういう信心に目指させて頂くと言う事になる時です。
 所謂家柄人筋となって神の気感に叶うた氏子、神の機感に叶うた家柄として神様がお取り立て下さり、所謂代勝りのおかげを受けられると言う事になるのです。とにかく私は今日はこの人間と身代と達者と言う中の人間を先ず創る事、言うなら人間を愈々豊にすること。とかく信心は地を肥せと言われる。先ず人間の心を肥せと、そういう精進をしている内に神様の働きを必ず傍に。見る事が聞く事が自分の心に、感じる事が出来るようになるから、神のおかげをおかげと実感出来れるようになり。
 神の大恩を愈々分からして貰う先ずは人間から、昨日私は菊栄会の方達が集まっておる集まりを見てです、段々おかげで人間が出来て来よるなあと思いました。恐らくもうこの人達はおかげを段々頂いて行っても、色事やら賭事に血道を上げたり魂を奪われる様な事は先ずなかろう。又あってはならんそんな思いを致しました。折角ここ迄おかげを受けて居るのがそういう乱れた生き方から。おかげを落す様な事になってとにかく私は人の信用を受けると言う事も神様のご信用を受けると言う事も矢張り人間だと思います。
 あれは器量が良いからと言う様な事でです、あれは財産を持って居るからと言う事で信用が付くものではない。人間です所謂あの人は間違いがないと言う所の信用を、神徳を受け人徳を得よと言われる。神徳人徳が頂けるのも先ずは人間だと思います。今日はギリギリ自分の人間としての、いわば本当の真の人と言うか、真の人間を目指して頂いておる度合と言うか信心を一つ、見直し正直しておかげを頂いて行かねばならんと思いますね。
   どうぞ。